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蜜×毒なイラストとかOJとか

「重版出来!」#10-2 異論があるならベルサイユに来い!

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さて、前回の感想では、ワタクシ三蔵山先生に倣って抑えに抑えてきました(あれでも)
なぜならば、あそこで五百旗頭(いおきべ)=オダギリジョーを語ってしまうと、ただでも長い感想がさらに収集がつかなくなること請け合いだったからでございます!

こっからが本題でございます!(マイク鷲掴み)



まず、この物語の真の主役が誰かといえば、それは三蔵山先生、もとい、「出版に関わるすべての人(読者を含めて)」であるといえよう。
一方で、ヒーローはというと、これは間違いなく三蔵‥‥もとい、黒沢心であろう。

何しろ彼女はブレない。
第1話冒頭から「ブレない」体軸を評価されるという、世にも珍しい体育会系女主人公。
出会う人々とまっすぐに向き合い、失敗してもめげない、くじけない。精力善用、自他共栄で回を追うごとに成長していく。
高畑の移籍騒動で「自分の責任です」と謝罪した姿なんかもう、こんなに清々しく男らしい主人公、男でもそうそういない。

ではヒロインは誰なのか?
‥‥言うまでもあるまい、五百旗頭 敬だ(笑)

それもあれだ、キャーキャー騒いで主人公の足引っ張る系ではなく、優しく穏やかに主人公を導き、諭す、有能で美人な理想のヒロイン。
例えていうなら「銀河鉄道999」のメーテルだ。

ワタクシはここに「五百旗頭≒メーテル説」を提唱する!

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なにしろ徹頭徹尾「デキる男」五百旗頭 敬。
それも主人公に編集者としての理想を教え導くポジションだ。
心の成長に伴っているかに見えるこの物語は、実は、五百旗頭によって導かれているのである。

覚えているだろうか、第1話で彼は心にこう語っている。
「週刊連載っていうのはさ、ゴールのないマラソンみたいなもんなんだよ」
「三蔵山先生は、週刊誌で30年以上休みなく、第一線を 走り続けてきた。並大抵のことじゃない。そんな人が、走るべき道を見失った時、どんな言葉をかければいいのか‥‥」

はい、わかりますね!
「重版出来!」最終話は、この第1話とまるっきり対になっておるのです!

30年以上連載を続け、心が折れてマンガ家をやめようとした三蔵山先生。
40年の集大成として近代芸術文化賞を受賞し、「マンガ家人生に終止符を打つ」という三蔵山先生。

「どういう事だ五百旗頭!」
という編集長のリアクションも同じなら、真っ白になった五百旗頭の表情もまったく同じで(笑)
しかしその背景はまったく異なっている。

第1話時点で三蔵山の担当になったばかりだった五百旗頭は、その後(ドラマの背後で)ずっと、走り続ける三蔵山先生に伴走していたのだ。
実は6話で心が中田をアシスタントにしてもらうために三蔵宅を訪ねたシーンで、さりげなく伏線があった。
「五百旗頭くんとの打ち合わせから新しいものを作れそうだ」
そう、三蔵山先生はあの頃からすでに「新しい冒険」への準備を進めていたのである。

思えば登場時から「(ほぼ)理想の編集者」であった五百旗頭。
決して奢ることなく作家に寄り添い、適切なアドバイスで新しいアイデアを示唆し、ナイーブな新人作家のケアも万全、後輩の指導もバッチリ、エクセル処理も完璧(←大事)
しくじったといえば「高畑移籍事件」だが、これも担当は心であって五百旗頭が起こしたことではない。単に「クールで有能で理性的すぎで愛を伝えるのが苦手だったから、これからはちょっと情熱的になりましょう」とか、むしろステキ要素じゃんそれみたいな(笑)
心のみならず営業小泉からも「カッコいいいいいい~~」と憧れ慕われ、あげくの果てには視聴者からまで
「五百旗頭が手に入るなら悪魔に魂を売る!」
「五百旗頭に指導されたい!」
「ていうかミミズになりたい!」

みろ、メーテルやんけ!

そのメーテル五百旗頭が各話の中で残した印象的な言葉の数々。

たとえば3話でうっかり心に
「編集者は誰に給料もらってると思う? 読者だよ」
と説教したらメモ書きされて貼りだされて凄い勢いで回収したりとか(笑)

4話では東江を手放して嘆く心に
「編集者と漫画家の出会いなんてそれこそ運命みたいなもんなんだよ。
星の数ほどいる中で出会った以上は全力で相手のことを思って、その気持ちに応える
とロマンチックフォローしたらのちのち小泉にまで披露されてたりとか。

5話では「ここぞという勝負のために運をためる」社長ゆずりの信条を紹介し、7話では「担当した新人さんにどんな作家になってほしいか」と訊かれて
「担当が変わっても、雑誌を移っても、ひとりでどこまでも泳いでいける作家」
と答えている。

各話で心が手に入れる「答え」はほぼ、五百旗頭の信念なのだ。
(ほぼ)理想の編集者としての彼の言葉はそのままこのドラマのテーマである「理想の編集者とは?」への答えであり、それをそのまま吸収して心は成長していく。

そして迎えた最終話。

「大切な相手に好きと伝えられない」という、弱点ともいえない弱点を克服した五百旗頭にもはや隙はない。
誰にも言わずひっそりと「ドラゴン急流」の近代芸術文化賞受賞を信じ、準備を整えていた五百旗頭。
あの「狙ってたんです」に胸を撃ち抜かれなかった女が(男も)いるだろうか!

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っていうか、気付いた人も多いと思うが受賞本命と言われていた「ツノひめ」も「HITTI-POTTI」も、そもそも五百旗頭が立ち上げた企画だ。そして三蔵山先生を蘇らせ、その信頼を得て「ドラゴン急流」を受賞させたのもまた五百旗頭なのだ。
なんじゃこの五百旗頭無双状態は!

そう、五百旗頭こそが三蔵山先生に「新しい冒険に付き合ってくれ」と言わしめる、理想の伴走者、最良のパートナー、理想の編集者だった、ということなんである!

「理想の編集者とは何か」を追ったこの物語は、要するに編集者と作家の関係性を描いた物語でもあり、
だから自分は断言する。
すなわち五百旗頭と三蔵山先生の物語でもあったのだと!



‥‥え、心と中田伯じゃないのかって?
そういう見方もあるかも知れませんね(棒)


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♪さあ行くんだ その顔を上げて 新しい風に心を洗おう
古い夢は 置いて行くがいい ふたたび始まる ドラマのために

おやまあ、ピッタリじゃないか!
ふたたび始まる「重版出来!」2時間スペシャルドラマを座して待つぜ!

「重版出来!」#10-1 会心の一本を獲ったのは

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すごく良い原作だし。
神がかったキャスティングだし。
どの回も演出が上手いし劇伴も泣けるし、美術スタッフの丁寧な仕事も公式アカウントの熱心な宣伝も、どれもこれもいう事なしのドラマだったんだけど!

自分がこの「重版出来!」を見続けてきて、もうどうにもシビれたのは、何を隠そう(隠れてないが)脚本の野木さんの手腕だ。
第1話から最終話を見据えて、練りに練って作りこまれた構成の緻密さと揺るぎなさ。
そして最後までブレずにきっちりと納めきったこの根性よ。

自分はあまりドラマを見ない方なので、野木さんの脚本をすべて見ているわけではない。
コレはすごいなと唸ったのは「空の広報室」の時だ。
原作付きのドラマにありがちな残念な部分が一切なく、むしろ原作の良さをさらに引き立てるストーリー仕立てはお見事! と言うしかなかった。
今回もまた、エピソードの入れ替えや合体、オリジナルエピソードの挿入にまったく違和感がなく、むしろキャラの奥行きを深めるその手腕にはひたすら感心、というよりむしろ戦慄を覚えさえした。

まず、第1話では新入社員の黒沢心が語り手となり、配属された週刊バイブス編集部でいきなり三蔵山先生のピンチに直面、会心の一本を取る。
ここで心の抱いた「理想の編集者とはなにか?」という疑問こそが、全10話におよぶ「重版出来!」のメインテーマだ。
2話以降、視点こそ営業の小泉や新人作家の東江、他の編集部員たちなどに替わっていくものの、それらの物語をひとつの結論にまとめ、最終回へと導くのは、10話でふたたび語り手となった心だ。

「理想だけで仕事できる人はこの世にどれだけいるのだろう」と傷つく安井。
「ただ、マンガの中だけで生きていたかった」と嘆く沼田。
「大人は子供の前でカッコつけなきゃならんでしょう!」と叫ぶ和田。

物語の中ではさまざまな立場の人物の、さまざまな葛藤が描かれる。
そしてその葛藤が、別の人物の葛藤との対比となり、エピソードがつながっていく。たたみかけるように回収され、あらたに展開する伏線の数々は、なんだか宝探しのようで。
中田のサイン会から受賞式にかけてのくだりなんか、もう、五百旗頭の「狙ってたんです」に唖然とする編集者たちみたいな顔で画面を見つめていたぞ自分は!

というわけでワタクシはここに「野木亜紀子≒五百旗頭説」を提唱する!(笑)

社長の過去からつながる「重版出来」の意味。
小泉や岡部長が靴をすり減らして切り拓く営業の力技。
「良い本を読んでもらいたい」という書店の河さん、北野さんらの熱意。
「売れるための」カバー装丁を手がける野呂さんの集中力。
出版に関わる人たちの、本を売るために重ねられた努力が。

作家になれなかった沼田の、
作家になってしまった東江の、
そして作品を生み出し続ける三蔵山、高畑、中田、後田といった作家たちの痛みが。

そして、そんな作家たちを守り、雑誌を守るために闘う編集者たちの苦しみが。

それらが9話までに語り尽くされていたからこそ、
「そんなもの要らない」という中田伯に視聴者は、断固として
「それが必要なんじゃ!」と思えるのだ。

「ピーヴ遷移」売り出しにスパートをかける、編集の、営業の、書店の、あらゆる関係者たち。
その熱意に動かされて、ついに中田自身が変化していく。
すべての回で描かれたすべてのエピソードがここに絡み、クライマックスに向けて集約されていくこの快感といったら!
ずっと心といがみあっていた安井までが売り出しのアイデアを出したあたりで、思わず鳥肌が立った。

そんな「ピーヴ遷移」の重版が決定したところで物語は終わる。

誰もが闘っている。
うまく行かない、思い通りに行かない、裏目に出る、世情に逆らえない、数字に逆らえない。
シビアな現実を真正面から受け止め、描いてきたたからこそ、「重版出来!」というひとつの言葉で、そこにいる全員が喜びを爆発させるこのシーンがキレイ事ではない、本物になっているのだ。

「自分が動けば何かが変わる」というメッセージが視聴者にダイレクトに伝わる、本当に素晴らしい脚本だった。
(伝わりすぎて突き刺さって、放映中は毎回、マンガ家や編集者、出版に関わる人々の色々血を吐くようなツイートが溢れかえっていたようだが・笑)

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五百旗頭も踊っていた。一応踊ろうとはしていた。


‥‥とまあ、視聴直後自分の心にはこんなような感動が溢れかえったんですけども。
あれから1週間たち、そろそろ自分の中で整理がついたかなと振り返って、いまだに収まっていないのが、近代芸術文化賞漫画部門受賞パーティでの三蔵山先生だ(笑)


「人生は素晴らしいもの」と作品で訴え続け、それが伝わらないと嘆き筆を折ろうとした三蔵山先生。
沼田らアシスタントたちを温かく見守り、そっと支え(というか、そもそも作家というフリーの立場でアシスタントたちを養うことの大変さが安井回で語られている)
他人を拒絶する中田伯の異能も、過去も、反抗期(笑)をも夫婦で受け止める。
なんという博愛! なんという天使! いや菩薩か! 三蔵山 龍、生ける菩薩!
‥‥とか思ってたら、菩薩いきなり壇上でマイクわしづかみに

「天才も凡人も年齢も性別も人種も国境も関係ねえ!」
「オマエラに負けねえ!」
「かかってこいやー!」
(意訳)


(  Д ) ゚ ゚


かっけえええええええ!


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全っ然似てませんが何か!


あの小日向さんが、ここまでずーーーーっと、穏やかなセリフ、抑制のきいた演技をしてきた理由はこれだったのか!
シーンと静まり返った会場に、そういえば、第1話で心が三蔵山先生に「会心の一本」について語った場面を思い出した。

「頭の中も‥‥あたりもシンと静まって、永遠みたいな一瞬のあとに、主審の、『一本!』って声が響いて(中略)
 そのとき初めて、決まった! とった! って分かるんです」
「気分いいでしょうね、その瞬間」
「はい! と~っても!」

ある意味三蔵山先生で始まって三蔵山先生で終わった作品だった。

‥‥真の主役は小日向文世だったでFA。

「重版出来!」#9 メガネは本体じゃなかった的な。

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さて、お待ちかねの第9話。
今回はオダギリ演じる「常にクールで非のうちどころのない」副編集長・五百旗頭(いおきべ)がフィーチャーされたわけだが。


人気連載「ツノひめさま」を企画から立ち上げて成功させ、大御所・三蔵山先生からも信頼される有能な編集者。
私生活でも行い正しく超がつく善人(本人的には「運溜め」らしいが)。
主人公の心のみならず営業の小泉までが憧れ、編集長の信頼も篤く、あの安井ですら(笑)よっぽどの事がない限り噛みつかない、誰からも一目置かれる五百旗頭 敬。

しかし、その五百旗頭にとってさえ、人生は「あれで良かったのか?」の連続だったようだ。

「HITTI-POTTI」の井上先生をエンペラーに送り出したのは正しかったのか?
高畑の引き抜き現場を見つけて追った自分は正しかったのか?
追ったはいいが、今どうするべきなのか?

クールな外見と裏腹に、オダギリの声で語られる五百旗頭の内心はブレまくっていて、なんつーか内心と見た目のギャップがありすぎて面白いw

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もうこのネタわかる人も少ないだろうかw

常に冷静な(ように見える)五百旗頭の弱点は、まさにその「冷静さ」にあったようだ。

井上氏の件だけでなく、なんとバツイチ原因までが「冷静すぎるから」だったりして、要するに自分の本音を相手に伝えることができないタイプらしい。
そんな五百旗頭が殻を破るきっかけとなったのが今回の「高畑引き抜き」‥‥というよりは「ツノひめさま」連載終了」騒ぎだったわけだが。

こんな事言うのも何だが、正直、五百旗頭そのものにはそれほどドラマ感がない(笑)
ドラマというのは、その人物に何らかの「欠如」あるいは「過剰」な部分があるからこそ際だつものだからだ。
五百旗頭の場合、本人の出来が良すぎて、今度の挫折も他の編集部員ほどには「ヤバい感」がない。
だから今回のエピソードではむしろ、心の担当編集者としての成長と覚悟の方に感心した。

「小熊には言うな。あいつはきっと、泣く」という高畑も、
中田伯の連載に向けて必死な心に高畑の件を伝えられなかった五百旗頭も、
黒沢心という人間を愛してはいても、編集者としてはまだまだ育ててやらなくてはならない存在だと思っていたのだろう。
だが当の心は、「浮気亭主が急にやさしくなるアレ(by壬生)」的な高畑のねぎらいメッセージから、ばっちりエンペラー接触の証拠を見つけ出し、編集部内でも「責められるべきは私です」と謝罪をする。

なんという男前!
高畑の気持ちも五百旗頭の気持ちも編集部の葛藤も、すべて受け止めたうえで、
「ツノ姫の最終回まで、先生と一緒に走らせてもらいます。エンペラーで好きなものを描くのはそれからです」
あいつは泣く、と言った高畑の方がよっぽど泣きそうになってるじゃないか!
心さん、かっけええ!

ま、それはそれとして、やはり今回のハイライトは「五百旗頭さん殻を破る」なわけで、
信頼していた高畑の引き抜き騒動に傷つき、
編集部での(主に安井の)嫌味に傷つき、
とどめにエンペラー見坊の嫌がらせに凍りついた五百旗頭暴走シーン。

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冷静すぎる男・五百旗頭が理性を吹っ飛ばすには、わざわざメガネをはずす必要があるらしい。
五百旗頭のメガネは「理性」なのかwww

さけぶ五百旗頭! 走る五百旗頭! そして意味不明の愛を告白する五百旗頭!
世間では「クールで男前で優しい五百旗頭にオダギリさんぴったり」などと評価されていたが、ファンからすると泣いてわめいて走って感情を爆発させないオダギリには意味がない。
ようやく五百旗頭役にオダギリが配された意味を見た。

一方で、恐ろしく計算され尽くした心情表現の細やかさにも注目して欲しい。
たとえばあの絶叫シーンも、普通なら勢いにまかせて乱暴にメガネはぎとって叫ぶところだろう。
しかし、五百旗頭は違うのだ。
フレームが歪まないように丁寧にメガネをはずし、しかるのちに吠える(笑)

愛を表明した後も、乱れているのは髪くらいで表面上は落ち着いている。
そのくせ、高畑と見坊の問答をききながらその目は、不安そうに、意表をつかれたように、そして嬉しさを隠しきれなかったりと、くるくる内心の変化を見せ付ける。

「お前、(ツノひめの)ファンだったのか」
と高畑にあきれられた五百旗頭が
「‥‥はい」
と答える、その一瞬の「‥‥」の間の表情の移り変わりが絶妙で。
オダギリジョーという役者の凄みは、実はこういう内面の表現にあるのだ。

というわけで実に(オダギリファン的に)オダギリ満載の、満足の回であったー。


さて、「欠如あるいは過剰」という意味でいうなら、この人こそはドラマとしての王道主人公といっていい、中田伯。
親に虐待されたがゆえの、共感能力の欠如、物語があふれ出てもてあますほどの感情と才能。
三蔵山先生とアシスタント仲間のおかげで乗り越えかけた最後のハードルが「女性キャラ」。
母親に虐待され、他人すら理解できない伯にとって「女性」なんて宇宙人や生命兵器の方がマシなくらい理解できない存在だ。

苦しんで苦しんで苦しんで(でも心はモデルにはできないらしいw)、そんな彼の目の前に現れたのが、あの後田アユちゃんだった事に、鳥肌が立った。

他人を受け入れることができなかった伯が、一瞬接触しただけのアユちゃんを受け止められたのは本能的に同じ傷を感じ取ったからなのかも知れない。
守るべき「親」から傷つけられてきたふたりの子供が、マンガに救われたことがものすごい救いだと思う。


新人・黒沢心のナレーションで始まったこのドラマは、小泉→壬生→東江→久慈社長→安井→沼田→編集長ときて、今回五百旗頭の内面を描くに至った。
編集者として理性的すぎた五百旗頭は自分の感情を表明することができるようになり、その五百旗頭に憧れていた心は、「作品のファン」から、「理性的に作品をプレゼンできる」編集者に育った。
今回のこのふたりの対比は、「理想の編集者とは?」というドラマ全体の問いかけに対して、(心にとっての)理想の編集者だった五百旗頭の変化を描くことで、心の成長を示していたと思う。

最終回、バトンは心に戻る。
「理想の編集者とは?」という問いかけに、どんな答えが用意されているのだろう。

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さすが主役回、シャツバリエーションは6パターンあった!

「重版出来!」#8 みんないい人(エンペラー除く)

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ひとつのエピソードが別のエピソードの伏線になり、肉付けになり、物語は終盤に向けて進んでいく。
そんな第8話。

コンビニで雑誌を買えるようになった。
ネットで本を買えるようになった。
っていうか、近頃はそもそも本を(マンガさえ)読む人が少なくなってしまった。
町の書店は次々に潰れる。取次ぎも潰れる。つーか出版社が潰れる。
それでも本に関わる人たちは、少しでも良い仕事をしようと必死で努力を重ねているのだ。
マンガを描く人、編集する人、印刷する人、製本する人、流通に関わる人、そして書店で売る人‥‥。

「私ら大人は子供の前でカッコつけなきゃならんでしょう!」

という編集長の言葉は牛露田先生を救った。
山縣留羽先生の「100万オトメバイブル」は14歳の河さんを救い、
今またアユちゃんの心を救った。
岐阜のキタノ書店の熱い思いは和田編集長の心を救った。
「妖怪パタパタ」もといエンペラー営業にへこんだ小泉くんの心を救ったのは、河さんの書店員としての信念だ。

そして――小泉くんが出した手紙は、とてつもないご褒美を河さんに届けることになる。

とても美しい、蜘蛛の糸のように張り巡らされた美しい「救い」の連鎖だった。
もちろん、人生は美しいだけではない。
このドラマは、現実の厳しさ、もどかしさ、残酷さをも容赦なく描く。
本屋はつぶれるし、沼田くんは酒屋になってしまうし、やっと娘と向き合うことができた牛露田先生はもうまっすぐな線を引くこともできないのだ。

でも、キタノ書店は起死回生の「独自性」を打ち出そうとしている。
沼田くんの存在は、今苦悩する中田の心を切り拓こうとしている。
牛露田先生は、マンガ家だった自分への誇りと娘を取り戻した。
元のようには戻れなくても、形は違っても、それでも何かが前に進む。
そんな現実と理想の描き方をしているドラマだと思う。


さて、「読めば読むだけ強くてしなやかな羽になる」本を生み出す立場の中田伯。
「他人を理解する力の欠如が中田の弱点では」という五百旗頭の指摘は鋭い。

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初登場から沼田回まで、さんざん「空気の読めない男」感が振りまかれていたので、これは誰もが予想していただろう。
しかし沼田君の置き土産の落語を聞きながらスランプの泥沼にはまり、「苦労知らず」「マンガがなくても生きていける」と貶した大塚シュートを意識しすぎて、ついには自信喪失してエレベーターでへこたれる姿に、思わずお姉さんたち胸がワクワクと高鳴っ‥‥ハラハラと心配で心配で‥‥なあ?(笑)

それにしても、中田の存在がこんなにクローズアップされるとは。
最初は絵は上手いがネームを作れない東江と、絵は下手くそなのにネームがあふれる中田の対比だった。
前回は帰る場所のある沼田くんと、帰る場所のない中田の対比。
そして今回は、共感力が高すぎる大塚シュートと他人を理解しようとしない中田の対比。

最終的には編集者である黒沢心と、創作者としての中田伯の対比になるのだろうか。

まあ小泉くんや大塚シュートのように素直であるがゆえに立ち直りも早い男の子たちと違い、幼少期に闇を抱えた中田伯の挫折はあまりにも深い。そんな彼の心を、はたして素直属性の小熊ちゃんは救うことができるのだろうか?

‥‥などという縦軸クライマックスを差し置いて話題沸騰になっちゃってるのが
「次回、五百旗頭回!」

高畑に電話するエンペラー副編集長見坊
これは副編集長対決か!?
五百旗頭走る!
五百旗頭わめく!

よっしゃ! やっとオダギリの本領発揮!!

五百旗頭を見て「オダギリさんてカッコいい」とか初めて知った視聴者たちは思い知るがいい!
感情爆発あってこそのオダギリジョーだということを!
面倒な中田ケアは三蔵山先生にまかせて、クールで有能で誠実で非の打ち所のない五百旗頭の乱れる姿を堪能するどー!ヽ(`Д´)ノ

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「重版出来!」#7 圧倒的な才能に絶望する凡人を演じるムロ氏の圧倒的な演技力

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あまりにも。あまりにも胸が詰まるストーリーに、感想を書く手も鈍るほど重い回だった。

「夢をあきらめて、故郷に帰る」
沼田の挨拶を耳にした五百旗頭の表情が印象的だ。
おそらくこれまで何人も何人もの同じような挨拶を、ただ見つめることしかできない編集者。

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「沼田くんはここであきらめずに、SNSやpixivでマンガを続けたらいい。そこからメジャーデビューの道だってある」
という意見をかなり見かけた。
視聴者は「救い」が欲しいんだろうなと思う。

でも、自分は彼が望んでいたのは「マンガ家としてデビューする事」ではなかったように思う。

子供の頃からマンガが好きで、友達に褒められ、二十歳で賞を取り、「マンガを描く事が好きな自分」が彼のすべてで。
しかし、言い方は悪いが、その程度の人間は世に巨万といる。
「運よく」プロデビューできた新人作家の中も彼と同じかそれ以下のレベルの人間はいくらでもいて。だからこそ二十年間、「いい編集者と出会わないから」「運が悪いから」と言い訳できていたのだ。

でも中田伯は違った。

中田のネームノートを見てしまった瞬間の、沼田の恐怖。
自分には決して手が届かない「才能」を見てしまった瞬間、彼はその中に矮小で、情けない自分を見つけてしまったのだろう。
沼田くんは「マンガ家として成功」したくて嫉妬したんじゃない。
天才になりたかったんだ。
中田のような、マンガがなかったら生きていく術がないほどの、本当の天才に。中田の壮絶な過去さえ、妬ましかったかもしれないくらいに。

インクで真っ黒に汚れた沼田くんの手は、まるで人を刺して血にまみれたように見えた。
マクベスのように。
でも、刺してしまった己の真っ黒な手に脅えていたけれど、そのインクを必死でぬぐおうとした姿こそが沼田くんの本質だと自分は思う。
嫉妬に狂ってノートそのものを破いて捨てて、知らぬ顔を決め込むことなど、マンガを愛する彼にできるわけがなかった。
親に虐待され、「帰るところなどない」と断言する中田の過去を「才能がもらえるならそれすら羨ましい」とは、彼には言えなかった。
必死で汚れをとろうとして(余計汚して)、自分の手も汚れてしまったところが、沼田くんの善良であり、小さいところなのだ。

そんな沼田くんが愛おしくて愛おしくて泣けてくる。

そのまま、ノートを隠して、暴露に脅えて死んでしまいそうな沼田くんを救ったのは、彼に真実を告げる三蔵山先生のまっすぐな視線。そして中田伯その人のまっすぐな視線だった。

沼田くんはまっすぐに、誰かにわかって欲しかったのではないだろうか。
だから、自分は彼に「SNSやpixivで作品を発表する道もある」とは思わない。
望んだ「理解」を得て、初めて自分の絶望と向き合った彼には、すっぱり酒屋になって欲しいと思うのだ。

「現実なんていらなかった。ただ、マンガの中だけで生きていたかった」
中田に背を向け歩き出した沼田くんが、泣きじゃくりながらそれでも必死に前に向かって歩く姿に号泣した。
実家の近所のおばちゃんたちに「もうずっといるよ」と返す沼田に号泣した。
「原料の米を削って削って、いいところだけを使って作る」
実家の吟醸酒に、彼のモノづくりの心は活かされるはずだ。
それこそが本当の「救い」なのだと、自分は思う。


そして、並行して描かれるかつての「天才」牛露田とその娘の物語。
一見して中田との対比のようでいて、むしろ「いつか認めてもらえる」と待ち続けた沼田との対比にも思える。
この作品は、本当に「対比の妙」と「伏線の配置」が見事でうならされる。

シリアスな中にさりげなく息抜きとして置かれたコメディパートの配分の良さにも。

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